画像
文字サイズを10段階で変更可能 》 大きく 小さく

本文はここから、映画の背景

高田盲学校について

写真
昭和31年
高田盲学校
教員時代のキヨさん
写真
映画の1コマ
初めて点字に触れるふみ子
写真
2006年3月17日
高田盲学校
最後の卒業式
写真
新潟県立歴史博物館
高田盲学校の常設展示
ふみ子のモデル・粟津キヨさんが学び、やがて原作者・市川信夫氏と共に教鞭を執った高田盲学校。
京都の盲唖学校、東京の東京盲唖学校に次ぐ、日本で三番目にできた盲学校です。
電話もなく、情報がすぐに入らない時代、その頃東京に盲学校があることなど知らなかった眼科医の大森隆碩氏ら「訓盲談話会」の人たちが、盲人のための学校を作ろうとしたのが高田盲学校の始まりでした。

当初の設立の目的は、按摩などの技術を高めることであり、今で言えば技術学校(テクノスクール)でした。
しかし、大森氏は盲児たちの様子を見て、「いわゆるテクノスクールではダメだ。人間らしい教養をつんで教育しなければならない」と、本格的な学校づくりを唱導されました。その頃すでに東京に盲学校があることが伝わってきており、それにならって学校を作るには県知事の許可が必要でした。
そのために研究会を開き、指導法・カリキュラムを整え、明治20年に最初の学校設立許可申請を提出。
四度目にしてやっと許可がおり、高田盲学校は日本で初めての「地方盲学校」として誕生しました。

設立時の高田盲学校は、その名前を「私立訓矇学校」としていました。
他校の殆どは「訓盲唖院」や「盲唖学校」なのに対し、高田は「訓矇学校」です。
「盲」は肉体の盲、「矇」は心の盲。まず心の矇を啓いてから教育するという、大森氏の崇高な教育方針が、このことから感じることが出来ます。

そんな高田盲学校が、2006年、その118年の歴史に幕を閉じました。

一時は生徒数百数十人と大きな学校でしたが、今は生徒数十人。
それには医療技術が進歩して視覚障害の人がだんだんと少なくなったこと、そして視覚障害を持つ人も普通学校に通えるようになったという背景があります。
さみしい反面、喜ばしいことなのかもしれません。
しかし現在、視覚障害者の為の教育を受けられる場所は日本にわずか71校。
そしてそれもこの高田盲学校の閉校により、70校となってしまいました。

2006年3月17日に行われた、高田盲学校最後の卒業式では、小学生1名、中学生1名、そして中途失明し鍼灸を学んだ大人の方2名の、計4名の方が卒業されました。


ページ内容はここまでです。
  1. メインメニューへ
  2. ページの内容へ